帆柱山系の主な山

皿倉山(標高622メートル):
晴れた日の皿倉山山頂(権現山側から)

帆柱山系の最高峰は皿倉山である。帆柱ケーブルカーとリフトを乗り継げば約10分程で山頂に着ける。皿倉山は北九州市のほぼ中央に位置し、山頂からは展開する100万都市の町並みや、八幡製鉄所をはじめとする北九州重工業地帯の活力ある景色はすばらしい一言に尽きる。

遠くは由布岳・英彦山・姫島・沖の島なども遠望でき、100億ドルの夜景は新日本三大夜景の名所に選ばれるなど、360度に展開する視界は何度訪れてもその都度新鮮な感動を味わえる山である。

日の出
山頂俯瞰

皿倉山の名前の由来は、神功皇后が当山に登られ遥かな国々を眺望した箇所を「国見岩」と呼び、山麓にたどり着いた時には「更に暮れた」として「更暮山」の名の起こりを説く。

  山頂にはNHKをはじめ民放各社の通信施設が林立し、電波の送受信基地として重要な山であり、市内のどこからでも鉄塔の様子から皿倉山だとすぐにわかる。

100億ドルの夜景
権現山(標高617メートル):
朝の権現山頂(皿倉山側から)

権現山の名の由来は、紀伊熊野の三所権現を祀る鷹見神社(八幡西区市ノ瀬)の上宮と奥宮があることから呼ばれるようになったという。人々の信仰の山であったことでも有名。

 

また、南北朝時代には当山で二度の合戦が行われたり、密貿易の異国船発見を伝達する「のろし山」でもあり、鷹見岳城(高見城)があったことでも知られている。

 貝原益軒著「筑前国続風土記・1710年」によれば、「皿倉山より杉山はひきく、杉山より帆柱山はひきし。」とあり、当時は権現山を杉山または矢筈山・坊住山とも呼んでいた。

 一方、「遠賀郡誌下巻・増補改訂」によれば、黒田家々臣・大橋又兵衛ほか3名は享保5年3月(1720)に山分けのため登山、皿倉山より杉山は三間高いと書き残している。

鷹見神社奧宮
山頂
頂上の紅葉が

黒田藩の領地になった頃(1600)から植林計画をすすめた名残が、現在に残る「皇后杉林」である。樹齢は250年生前後であるが、大樹の古木は約400年生と推定。

 権現山は第二次大戦中は軍事要塞となり山頂一帯は5mばかり削られたとある。そのため城跡は消失し、現在は皿倉山より4mほど低くなっている。

帆柱山(標高488メートル):
帆柱山(ケーブル山上駅方面から)

帆柱山の名称は、神功皇后が軍船の帆柱をこの山から伐りだしたことに由来する。花尾城の南面防衛のため築かれた帆柱山城があったところであり、階段状に曲輪を配置した連郭式山城の形跡が残っている。竪掘、石塁、土塁などの遺構を探りながら曲輪跡をたどっていくと本丸跡の山頂に着く。

建武元年(1334)、北条氏の一族・規矩掃部介高政が北条氏の再興を図りこの城で挙兵。城兵三千余名は大友、小弐氏の大軍に攻められあえなく落城。この後、豊臣秀吉の九州統一により廃城となる。

椿の花が美しい帆柱山

現在は老齢古木の繁る森林地帯であり、尾根筋にはツバキの自然林が密生するなど魅力は豊富。林内の遊歩道は幅員も広く、よく整備されたコースである。山頂からの視界も良く、眼下の黒崎地区は目前に迫るほど近距離にある。

花尾山(標高351メートル):
本丸跡

帆柱山系の中では最も手ごろで身近な山として根強いファン層に支えられている山だ。山頂一帯には今から約800年前に築城された花尾城の史跡が残っている。本丸跡は格好の広場となり二の丸、三の丸跡、馬場跡、出丸、井戸などの遺構を見ることができる。

山頂からの展望は、北側には八幡東区、西区の街並みが広がり、南側には帆柱山の照葉樹林が目前にせまる。花尾山経由で帆柱山のルートは「めぐみの森コース」として近年整備され、老樹古木森林を通過することで森林浴には最高。

ネムノキが綺麗

花尾城は1194年頃の築城で初代城主は麻生左衛門督朝長。出身は鎌倉幕府から派遣された御家人で「宇都宮」と姓を名乗っていたが、麻生庄の花尾山に築城したことから「麻生氏」に改名。足利尊氏の北朝に味方したり、南朝方に屈服したり、家督相続で内紛が起こったり、秀吉軍に降伏するなど戦乱の渦は絶えなかった。反秀吉の麻生氏は領地換えのうえで廃城となる。